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2022年7月31日説教「臨 在」松本敏之牧師

出エジプト記19章1~19節
マタイによる福音書17章1~9節

(1)旧約聖書の中心

出エジプト記は、本日読んでいただきました第19章から後半の第二部に入ります。これまでは、イスラエルの民がエジプトを脱出して、荒れ野をさまよう物語でしたが、ここからは神様から律法を授かって、契約を結ぶ話になります。これはシナイ契約と呼ばれます。

私の前任地、経堂緑岡教会全体修養会において、旧約学者で東京神学大学の小友聡先生が、この出エジプト記第19章を用いて、シナイ契約のお話をしたくださったことがありました(2001年)。これは私が赴任する前の年の修養会ですが、講演記録を読ませていただきました。素晴らしい、しかもわかりやすい講演でした。

小友先生は、講演の中で、「旧約聖書の中心は何か」と問い、「それは律法である」と答えておられます。「では律法の中心はどこにあるのか」と問うて、「それはシナイ契約である」と述べ、「ではシナイ契約の中心は何か」と問うて、「それは十戒である」と述べておられます。シナイ契約というのは、私たちがこれから読もうとしている出エジプト記の19章から24章に記されているものです。

ですから私たちは今、旧約聖書の中心を学ぼうとしているということを、どうぞ心に留めてください。この19章で神様はモーセと出会われるのですが、20章においてモーセに十戒を与えられ、21~23章では契約の書が与えられます。そして24章で、いよいよ契約締結となるわけです。内容的にその中心となる十戒については、この次からひとつずつ丁寧に学んでいきたいと思っています。

(2)はじめに恵みありき

さて19章の冒頭にこう記されています。

「イスラエルの人々は、エジプトの地を出て、三度目の新月の日にシナイの荒れ野にやって来た。彼らはレフィディムをたってシナイの荒れ野に入り、その荒れ野で宿営した。イスラエルは、そこにある山の前に宿営した。」(1~2節)

神様は山のほうにおられるということで、山に向かってテントを張ったわけです。モーセが山に登って行きますと、神様はモーセに語りかけられました。

「ヤコブの家に言い、イスラエルの人々にこのように告げなさい。『私がエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。」(3~4節)

神様は契約の話をする前に、自分がイスラエルの人々に、これまで一体何をしてきたか、どういう恵みを与えてきたかということに言及されます。これはとても大事なことです。神様との関係というのは、恵みを思い起こすことから始まるのです。何か厳しい戒めが与えられて、「これを守れ。守らないと死ぬぞ」という脅しではありません。最近、問題になっている統一協会のようなカルトでは、暗に献金を強いる脅しのようなことが伴っているようですが、聖書の神様は元来、そうではありません。「はじめに恵みありき」ということを覚えていただきたいと思います。これは十戒の構造においてもそうなのですが、それは次回、改めて述べることにします。

(3)神の宝、祭司の王国、聖なる民

そして5~6節で、今日のみ言葉の中で中心的な言葉が語られます。

「それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。そしてあなたがたは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」(19:5)

最初に心に留めたいのは、シナイ契約というものの枠組みです。「私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、~となる」と述べられます。これは、条件付き契約のようです。確かにそういう面もありますが、根本的なところでは、それを超えていると思います。アブラハムとの契約において、アブラハムは「何々をしたから祝福を受けた」というのではありません。「あなたは、そしてあなたの子孫は、私の契約を守るならば、何々となる」というような言い方はされませんでした。ただ一方的に神様からの約束でした。あなたの子孫は天の星のようになる。海の砂のようになる。その約束が取り消されたわけではありません。

ですからイスラエルが神の民として生きるために、「私の声に聞き従いなさい。私の契約を守りなさい。そこでこそ、あなたたちは私の宝となる。」ということなのでしょう。

内容的には、「あなたがたは私の宝となる」「祭司の王国となる。」「聖なる国民となる」と、三つのことが語られるのですが、その間に割って入るように、「全地は私のものだからである」という宣言がなされます。

すべてを根拠づけるような言葉です。神様はどういう方であるかを思い起こさせようとするのです。最後に、なぜならば「全地は私のものだからである」と関連付けてもよいかもしれません。

この三つの中で特に注意したいと思ったのは、「あなたがたは祭司の王国となる」という言葉です。これはイスラエルが選ばれた根拠とも言えます。「祭司」とはとりなしをする人であり、仕える人です。「王国」という言葉からして、他のすべての「国」の執り成しをする「王国」だということが見えてきます。それはイスラエルが傲慢になることを否定し、謙虚に生きることを促す言葉でしょう。自分たちは特別なんだといばるのではなく、神に仕え、他の国に仕えて、その両者を執り成すために、選ばれている。

このことは私たちがクリスチャンとして選ばれている根拠にも通じるものです。私たちはなぜクリスチャンとして選ばれたのか。召されたのか。それは神に仕え、人のためにとりなしをするためだということもできるでしょう。

(4)共同体の信仰告白

モーセは早速山から降りると、民の長老たちを呼び集め、神様が「語れ」と命じられた言葉を語りました。そうするとイスラエルの人々は、一斉に声をそろえて「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」(8節)と答えました。

これは、今日の教会の信仰告白の原型のようなものであると思います。小友先生も先ほどの講演で述べられていましたが、大事なことは、契約はあくまで神様とイスラエルの民、個人ではなく民、つまり信仰共同体との間でなされたということです。神様は個人個人と契約を結んでいないのです。神様はイスラエルの民と契約を結んでいる。そして契約を結んだイスラエルが神の民、聖なる民、聖なる国民となるのです。

こういうふうにも述べられていました。

「イスラエルの民はエジプトを脱出する。二つに分けられた紅海の乾いたところを渡って、エジプト軍から救われる。しかしそこではまだ真の共同体にはなっていない。契約を結ぶことによって初めてイスラエルは神の民となるのです。つまり、契約というのは共同体になるための契約なのです」。

そこから教会についても、こう語られました。

「私たちは一人一人個人的に神様と契約を結んだ人たちが集まって教会ができあがっていくんだと考えるかもしれないけれども、そうではない」

教会というところは、ただ単にキリスト教の信仰をもった人の集まりではないのです。社会学的に言えば、あるいは法律上から言えば、そうかも知れません。しかし信仰的に言えば、あるいは神学的に言えば違う。最初に神様がおられ、そこで呼び出され、共同体の中に召しいれられる。キリスト教で言えば、最初にイエス・キリストの召し、招きがあって、それに答えて共同体の中に入れられる。具体的には教会の中へと召されるのです。

そしてもう一つ大事なことは、ここで、イスラエルの民が、言葉もって応答をしたということです。そこで初めて契約が成立するのです。これは24章の契約締結の部分でも強調されています。

「さて、モーセは戻って来て、主のすべての言葉とすべての法を民に語り聞かせた。民は皆声を一つにして、『主が語られた言葉をすべて行います』と答えた。」(24:3)

(5)聖なる神が人間に近づかれる

その後、いよいよ神様はシナイ山に降って、イスラエルの民とお会いになると言われます。そして「そのために備えをしなさい」と言うのです。「不用意に山に登ってはいけない。周囲に境を設けよ。その境界線に触れてもいけない。それを侵す者、ないがしろにする者は死ぬ」と言われました。

そこでいよいよ神様の登場です。

「三日後の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上に臨み、角笛の音が極めて力強く鳴り響いたので、宿営にいた民は、皆震えた。モーセは民を神に出会わせるために宿営から連れ出した。彼らは山の麓に立った。シナイ山は山体が煙に包まれていた。主が火の中を通って、山の上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます力強くなったとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴で答えられた。」(16~19節)。

出来事としては、これが19章の中心にありますが、このところに込められている幾つかの意味を考えてみたいと思います。

ひとつは、神は聖なる方だと言うことです。そのきよさの前では、どんな人間も立っていることはできない。ですから「神を見た者は死ぬ」とさえ言われていました。他のものを焼き尽くすほど、滅ぼすほどのきよさをもったお方なのです。ですから極力清さを保つようにし、それでも注意せよ、と語られるのです。そのことが大前提です(イザヤ書6章5節参照)。

ところがその神は、ただ聖なる孤高の神として遠く離れて立っている訳ではなく、同時に人間とかかわりを持とうとされる。これが二つ目です。神様は天地を創られたお方ですが、ただ創りっ放しではありません。あるいは遠くから眺めておられるだけではありません。人間を契約のパートナーとして選び、それを通して徹底的にかかわろうとされる。聖なる方は同時に臨在されるのです。創ったからには、最後まで責任を持たれる神様なのです。

この神様の姿勢は、新約聖書までずっと続いています。これは聖書が語る最も大事なことのひとつです。そこには「一人も滅びないで欲しい」という神様の熱い思い、切実な願いが込められていると思います。

(6)新しい契約を結ぶ

神の民がその後どうなっていくか。歴史をたどっていきますと、ここであんなにもよい返事をしながら、彼らはそれを守り抜くことができません。神様に背いた歩みをしていきます。普通の契約であれば、それで一方が契約不履行ということで、契約破棄ということになるのでしょうが、神様は何とかして、この契約が成立し続ける道を備えられるのです。そのことを考えるにあたって、ここでどうしても触れておきたい大事な言葉があります。それはエレミヤ書31:31~33です。

「その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった――主の仰せ。その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。」(エレミヤ31:31~33)

これはぜひ覚えていただきたい言葉です。今日の箇所との関連においても大事ですが、旧約聖書と新約聖書を結ぶ大事な預言です。イスラエルの民は、この契約を守ることができなかったゆえに、神様は「新しい契約を結ぶ日が来る」と言われる。かつての「古い契約」では、律法が石の板に刻まれましたけれども(申命記5:22)、「新しい契約」は彼らの胸に直接刻まれるというのです。

この「新しい契約」という言葉こそ、私たちが使っています「新約聖書」という言葉の語源です。「新約聖書」という語源は「旧約聖書」の中にあるのです(もちろんキリスト教的に言えば、ということですが。)「旧約聖書」という言葉は、この「新しい契約」に対して「古い契約」ということです。新しい契約と古い契約。出エジプト記19章以下の「シナイ契約」が旧約聖書の中心であるということも、そういうことと深い関係があるのです。

(7)山上の変容

先ほど、この出エジプト記の19章にあわせて、新約聖書の「山上の変容」と呼ばれる物語を読んでいただきました(マタイ17:1~8)。この物語は、ちょっと不思議な話、何を言おうとしているのか、わかりにくい話です。イエス・キリストが弟子のペトロとヨハネとヤコブだけをつれて、山へ登られた。そうすると主イエスの姿が真っ白に輝き、その両側にモーセとエリヤがあらわれて、三人で何か語り合っていた、と言うのです。「モーセとエリヤ」というのは、「律法と預言者」を象徴する人物です。このことは、イエス・キリストは決して旧約聖書と無関係ではないということを表しています。この二人、モーセとエリヤが行ったことと密接なかかわりがあるのです。そこで光り輝く雲の中から声が聞こえてきます。

「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け。」(マタイ17:5)

天の神様は「私はこの者、つまりイエス様を通して、これまで語ってきたことを完成するのだ」と言おうとされたのでしょう。そのときの情景は本日の出エジプト記19章の情景を彷彿とさせます。

(8)私たちは、神の宝

今日の出エジプト記19章の5~節後半にこういう言葉がありました。

「あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。
そしてあなたがたは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」(19:5)

ここに神様のご意志があります。私たちも、イエス・キリストにあってそれに連なる者とされました。本当に、神様は私たちを愛する者、宝としてくださっているということ、そしてそれは私たちがイエス・キリストのものとなることによって実現するのだということを心に留めましょう。

この言葉から、『ハイデルベルク信仰問答』の最初の言葉を思い起こしました。その問1はこう語っています。

「(問1) 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
(答) わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。」(吉田隆訳)

私たちが自分自身の所有ではなく、イエス・キリストのものになること、その中に本当の慰めがあるというのです。それはその中にこそ、私たちが生きることの本当の意味が隠されているからです。その神様の意志を心に留めてこの1週間も歩み始めましょう。

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